僕が肩書を百姓と名乗る理由。

もう10年以上前になるかな。確か新聞だったと思うけど、ある企業の広告を見てすごく衝撃を受けたんです。そこには名刺があって名前だけが書いてある。コピーはこんな感じだ。

あなたから肩書を失くしたら、何が残りますか。

僕は当時サラリーマンで毎日鬼のように働いていました。大学を中退してフリーターとなり、仕事が楽しくなってきて初めての就職は23歳の時、バリバリの体育会系の若い会社で営業職。最初は全然成果が出なくて軽いノイローゼにもなったけど、ある時からコツを掴むことができて自分らしく結果を残せるようになりました。

「まさかあの阿部がここまで成長するなんてな」と飲みの席でよくからかわれたのは良い思い出。尊敬する上司からも評価を貰えるようになり、役職を与えられ、部下もどんどん増えていきます。もちろん順風満帆だけではなく紆余曲折はありましたが、仲間からも慕われて自信もありました。

そんな頃にこの広告を見つけます。慌てて自分のカバンから名刺を取り出し、会社名・役職名など装飾のように書かれた文字を消していく…。最後に残った自分の名前だけを見て思いました。

「僕は一体、何者なんだろう。」

答えは出ませんでした。

入社してから会社はどんどん大きくなって、自分もそれに合わせて成長して何かを掴んだ気でいたけど、いざその看板が無くなったら何者でもない。外の世界を見ることなく、小さな箱の中で自分ができる人間だと錯覚していたんです。とにかく恐怖だったし、優れた肩書をステータスと感じていた自分が恥ずかしくなりました。

これが自分の事を深く考えるようになったこと、同時に相手に対しても肩書ではなく本質はどうなのかを見るようになったキッカケです。

いま僕は自分の事を「百姓」と名乗っています。もちろん「農家」だったり「きゅうり農家」と説明する事がほとんどですが、これはそっちの方が相手に伝わりやすいから。心の中ではいつも百姓だと思ってる。肩書が苦手な僕が唯一、これになりたいと思ったのが百姓なのです。

しなやかファーム用に初めて作った名刺。(2017年7月撮影)

百姓=農民、このイメージが一般的ですよね。でも僕の解釈は違います。百姓=百の姓を持つもの。つまり、一つの仕事にとらわれず、あらゆる顔をもつ人のことです。ここにこの肩書の本質があると思っているんです。

昔の人は兼業として農業に従事しながら、あるときは○○、あるときは○○と生活のためにあらゆる職業をこなしていたようです。これはまさに現代にも必要な考え方じゃないでしょうか。○○だから○○しなければならない、と自ら枠組みを狭くしてしまうと、きっと思考停止を招き時代の変化に対応できなくなってしまう。僕の考える百姓とは、あらゆる物事に対応できるしなやかな在り方そのものなんです。

だからまず大前提に自分が何者なのか、何を成すのかを定める。そのための手段としての生業を選択していくのです。

僕はしなやんという一人の人間である。きゅうり農家は僕の行動を制限するものではなく、手段を表す名前だ。僕は家族を豊かにし、人の役に立ち続ける。そのためにあらゆる物事に挑戦するし、今日も一生懸命きゅうりを作っています。